元小結・二子岳の山中武さんの妻について、名前や経歴が公表された記録はありません。2026年9月10日に82歳で自宅で亡くなり、葬儀は家族葬で営まれます。
ただ、荒磯部屋を15年間支えた家族がいたことは確かです。分かっていることと分かっていないことは、はっきり分かれています。
- 妻について公表されている情報と、相撲部屋の「おかみさん」という役割
- なぜ訃報が本名の「山中武」で流れ、四股名が分かりにくいのか
- 初代若乃花に見出され、大鵬から金星を挙げた二子岳の82年の生涯
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 四股名 | 二子岳 武(ふたごだけ たけし) |
| 本名 | 山中 武(やまなか たけし) |
| 生年月日 | 1943年11月15日 |
| 死去 | 2026年9月10日(82歳)、肝細胞がんのため自宅で |
| 出身地 | 青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市) |
| 身長・体重 | 178cm・113kg(現役時) |
| 所属部屋 | 花籠部屋から二子山部屋 |
| 最高位 | 西小結(1967年九州場所) |
| 得意技 | 左四つ、下手投げ、内無双、足癖 |
| 年寄名跡 | 白玉から荒磯(12代) |
| 師匠として | 荒磯部屋(1993年5月から2008年9月) |
山中武(二子岳)の妻について分かっていること
妻の名前・年齢・経歴は、いずれも公表されていません。日本相撲協会の発表にも、報道にも登場していないんです。
それでも「妻」という言葉が気になる背景には、家族葬という知らせと、相撲部屋を支える家族のあり方があります。
妻の名前や経歴は公表されていない
結論から言うと、山中武さんの妻が誰なのか、確かめられる情報は見当たらないんです。
2026年9月13日に日本相撲協会が発表した訃報には、喪主の名前がありません。各社の報道も同じですね。
現役時代の1960〜70年代、そして親方時代の1990〜2000年代を通じて、妻がメディアに登場した記録も見当たりません。
つまり、公の場に出ない形で家庭を守ってきた方だと考えるのが自然でしょう。
| 項目 | 公表の有無 |
|---|---|
| 妻の名前 | 非公開 |
| 妻の年齢・出身 | 非公開 |
| 結婚の時期 | 非公開 |
| 子供の有無 | 非公開 |
| 喪主 | 発表されていない |
| 葬儀 | 家族葬で執り行う(相撲協会発表) |
| 死去の場所 | 自宅 |
「自宅で亡くなった」という一点は、発表に明記されています。最期を病院ではなく家で迎えられたということ。家族に見守られていた可能性は高いでしょう。
この記事では、妻の名前や素性を推測することはしません。相撲の世界で公人だったのは二子岳さん本人であって、家族は一般の方だからです。
相撲部屋のおかみさんという役割
では、妻はどんな役割を担っていたのでしょうか。相撲部屋には「おかみさん」という、はっきりした役割があります。
二子岳さんは1993年5月、東京都国立市に荒磯部屋を創設。2008年9月まで、15年間にわたって部屋を運営したんですよね。
親方の妻は、部屋の中で「おかみさん」と呼ばれます。仕事は多岐にわたるんです。
| 役割 | 具体的な仕事 |
|---|---|
| 生活の世話 | 力士の食事の手配、体調管理、身の回りの相談 |
| 後援会の対応 | 支援者との連絡、会合の準備、贈答のやり取り |
| 部屋の経理 | 食材費や光熱費など、家計と部屋の会計の管理 |
| 親方の補佐 | 親方の予定調整、外部との窓口 |
| 精神面の支え | 若い力士の相談相手、家族との連絡役 |
荒磯部屋は、閉鎖まで関取を出すことのない小さな部屋でした。所属力士は最後の時点で3人です。
大部屋と違って、若い衆やマネージャーを多く抱える余裕はなかったはず。となると、日々の運営の多くを親方と家族が直接担っていたと見るのが自然でしょう。
国立市は、当時から多摩地区で唯一の相撲部屋がある街でした。地域との付き合いも、おかみさんの仕事の一部だったのかもしれませんね。
15年間、関取が出ない部屋を維持するのは、簡単なことではありません。その裏に妻の支えがあったことは、名前が出なくても想像できるところです。
相撲部屋のおかみさんは、親元を離れて入門した若い力士にとって「母親と変わらない存在」だと語られます。しつけや悩みの相談、社会常識の指導まで担うからです。
番付発表のたびに後援者へ番付表を郵送し、いただき物にはお礼状を書く。地味な事務仕事も、ほとんどはおかみさんの手を通ります。
早稲田大学では2021年度に「相撲部屋におけるおかみさんの役割」を主題にした修士論文が書かれているほど。研究対象になるくらい、その役割は大きいんです。
自宅で亡くなり家族葬という選択
山中武さんは2026年9月10日、肝細胞がんのため自宅で亡くなりました。82歳でのことでした。
日本相撲協会が発表したのは3日後の9月13日。葬儀は家族葬で執り行うとされています。
| 日付 | できごと |
|---|---|
| 2026年9月10日 | 肝細胞がんのため自宅で死去(82歳) |
| 2026年9月13日 | 日本相撲協会が発表 |
| 葬儀 | 家族葬(日程・喪主は非公表) |
家族葬は、近年の元力士の訃報でもよく見られる形です。角界の関係者を広く呼ぶ形ではなく、家族だけで見送る。
2008年の停年から18年が経ち、協会との直接の関わりも薄れていました。静かに見送りたいという家族の意向があったのでしょう。
家族葬の場合、角界関係者や後援者の弔問は受けないのが普通です。発表が3日後になったのも、家族だけで見送る時間を先に確保したからでしょう。
肝細胞がんは、肝臓に発生するがんの中で最も多いものです。長い経過をたどることが多く、自宅で最期を迎えるには、家族による介護や在宅医療の支えが必要になります。
そこにも、名前の出ない家族の存在がうかがえるんですよね。
二子山親方の妻と間違えやすい
「二子岳」と「二子山」。字が似ているため、混同されやすい名前なんですよ。
ネット上で「二子山親方の妻」として出てくる情報は、元大関・雅山の二子山親方のもの。山中武さんとはまったくの別人です。
| 名前 | 人物 | 妻について |
|---|---|---|
| 二子岳(山中武) | 元小結。1943年生まれ、青森県出身。2026年9月10日に死去 | 非公開 |
| 二子山親方(雅山) | 元大関。1977年生まれ、茨城県出身。現役の親方 | 夫人は部屋のおかみとして公に活動 |
| 二子山(初代若乃花) | 元横綱。二子岳の師匠。2010年に死去 | ー |
さらにややこしいのは、二子岳さんの師匠が「二子山親方」だったことです。こちらは初代若乃花のこと。
「二子岳」という四股名は、その二子山部屋の名前から一字を取ったもの。師匠への敬意が込められた名前でした。
雅山の二子山親方は、若乃花とは直接のつながりがありません。同じ名跡を後に継いだ、という関係です。
なぜ本名の山中武で訃報が流れたのか
今回の訃報は、多くの媒体で「山中武さん死去」と本名で報じられています。
四股名の二子岳を知らない世代には、「山中武とは誰?」となったはずです。これが、名前が調べられている理由でしょう。
読み方は「ふたごだけ」。師匠の部屋の名前「二子山(ふたごやま)」から「二子」を取り、山を岳に変えた四股名です。
相撲協会の訃報は、年寄を引退した人については本名で出すのが通例です。二子岳さんは2008年11月に停年を迎え、協会を離れて18年が経っていました。
現役時代を知るのは、いま70代以上の相撲ファンです。1960〜70年代の力士ですから、無理もありません。
しかも改名が多い力士でした。四股名の変遷を見ると、その理由が分かります。
入門時は本名の「山中」で土俵に上がり、その後「若二子」に。若乃花の「若」と二子山の「二子」を合わせた、いかにも若乃花門下らしい名前です。
1966年5月に「二子岳」となってからは、下の名前を「武」「武晴」「武士」と変えています。
| 時期 | 四股名 |
|---|---|
| 1961年3月場所から | 山中 武(本名のまま) |
| 1966年3月場所まで | 若二子 武 |
| 1966年5月場所から | 二子岳 武 |
| 1972年11月場所から | 二子岳 武晴 |
| 1973年5月場所から | 二子岳 武 |
| 1975年9月場所から | 二子岳 武士 |
| 引退後 | 年寄・白玉 武士、白玉 武、荒磯 武 |
「武晴」「武士」と下の名前を変えては戻す。験を担ぐ相撲界らしい変遷ですね。
弟子の荒鷲が受け継いだもの
二子岳さんの荒磯部屋からは、閉鎖後に幕内力士が育っています。モンゴル出身の荒鷲がその人。
荒鷲は2002年の世界ジュニア選手権をきっかけに、元小結・旭鷲山に見出されて荒磯部屋に入門しました。同じ年の11月場所で前相撲を踏んでいます。
ただ、若手時代は苦労の連続でした。2006年1月場所で左肩を脱臼して以来、脱臼癖に悩まされ、7度目の脱臼で2007年5月場所後に手術を受けています。
その手術と回復の時期に師匠だったのが、二子岳さんでした。関取になる前の、いちばん苦しい時期を支えた親方だったわけです。
2008年9月、師匠の停年で部屋が閉鎖されると花籠部屋へ移籍。2011年5月に十両へ上がり、2018年3月には東前頭2枚目まで番付を上げています。
つまり、二子岳さんが育てた力士は、部屋がなくなったあとに関取になったわけです。
荒磯部屋は「関取を出せなかった部屋」と記録されています。でも、種をまいたのは間違いなく二子岳さんでした。
親方の停年後に弟子が花開く。相撲界ではよくある話ですが、本人にとっては複雑な思いもあったかもしれませんね。
荒鷲は2020年1月13日に引退を表明。断髪式は新型コロナの影響で延期され、2021年2月23日に両国国技館で行われました。
引退後は日本・アメリカ・モンゴルを拠点に不動産業を営んでいるそうです。荒磯部屋が残した、ただ一人の関取の現在ですね。
報道で食い違う新入幕の時期
今回の訃報記事を読み比べると、ひとつ気になる食い違いがあります。新入幕の時期です。
ある媒体は「1967年秋場所で新入幕」と書き、別の媒体は「1967年初場所で新入幕」としています。
| 媒体 | 新入幕の記述 |
|---|---|
| デイリースポーツ | 1967年初場所 |
| Wikipedia | 1967年1月場所 |
| 番付データベース(sumodb) | 1967年1月場所、西前頭13枚目で8勝7敗 |
| 一部のスポーツ紙 | 1967年秋場所 |
番付の記録をたどると、二子岳さんは1967年1月場所に西前頭13枚目で幕内デビューし、8勝7敗と勝ち越しています。
同じ年の9月場所は西前頭4枚目でしたから、「秋場所で新入幕」は誤りでしょう。初場所が正しい時期です。
訃報は短時間で書かれるため、こうした食い違いが出ることがあります。60年近く前の番付ですから、無理もないところですが。
ちなみに通算成績も資料によって数字がわずかに異なります。前相撲を含めるかどうかの違いとみられます。
二子岳の生涯と相撲人生
初代若乃花に見出され、二子山部屋の関取第一号となり、大鵬から金星を奪った技巧派。94場所を土俵で戦い、その後は親方として25年を過ごしました。
金木町の少年が歩んだ道は、昭和の相撲史そのものでした。
初代若乃花に見出された入門
山中武さんは1943年11月15日、青森県北津軽郡金木町に生まれました。太宰治の生家がある町です。
金木町は2005年の合併で五所川原市の一部になりました。太宰治の生家「斜陽館」が残り、津軽鉄道が走る、津軽平野の小さな町です。
そして青森県は、相撲王国と呼ばれる土地でもあります。鏡里、初代若乃花、栃ノ海、隆の里、旭富士と、5人の横綱を出してきました。
冬の長い津軽で、少年たちが相撲を取って体を鍛える。二子岳さんも、そんな環境で育ったひとりでした。
中学で相撲部に入り、卒業後、同じ青森県出身の横綱・初代若乃花に勧誘されて角界入り。1961年1月場所、花籠部屋から初土俵を踏みました。
若乃花は翌1962年に引退し、二子山部屋を創設します。山中さんも師匠とともに移り、二子山部屋の力士となりました。
1964年11月場所で十両に昇進。これが二子山部屋にとって最初の関取でした。
新十両の場所は西十両17枚目で、4勝6敗5休。けがで途中休場したのか、華々しい昇進とはいきませんでした。その後いったん幕下に落ち、1966年3月場所で十両に戻っています。
「土俵の鬼」と呼ばれた若乃花が、自分の部屋から初めて送り出した関取。師匠にとっても特別な弟子だったはずです。
二子山部屋には、そのあと次々と大物が入ってきます。1965年には若乃花の実弟・貴ノ花が入門。のちに「角界のプリンス」と呼ばれた大関です。
1968年には、のちの横綱・二代目若乃花と隆の里も入門しました。二子岳さんは、この3人の兄弟子だったわけです。
横綱2人と大関1人を弟弟子に持つ関取第一号。部屋の稽古場で、若い彼らの胸を貸していた時期もあったでしょう。
初代若乃花は青森県弘前市の出身で、二子岳さんとは同郷です。若乃花は2010年に82歳で亡くなりました。二子岳さんが亡くなったのも82歳。師弟で同じ年齢というのは、不思議な巡り合わせですね。
| 年月 | できごと |
|---|---|
| 1943年11月 | 青森県金木町に生まれる |
| 1961年1月 | 花籠部屋から初土俵(17歳) |
| 1962年 | 師匠・若乃花の引退に伴い二子山部屋へ |
| 1964年11月 | 十両昇進。二子山部屋の関取第一号 |
| 1967年1月 | 新入幕 |
| 1967年11月 | 西小結(最高位) |
| 1968年11月 | 10勝を挙げて技能賞 |
| 1969年11月 | 横綱・大鵬を蹴返しで破り金星 |
| 1976年9月 | 現役引退。年寄・白玉を襲名 |
| 1983年12月 | 年寄・荒磯を襲名 |
| 1993年5月 | 国立市に荒磯部屋を創設 |
| 2008年9月 | 荒磯部屋を閉鎖。11月に停年 |
| 2026年9月10日 | 82歳で死去 |
大鵬を蹴返しで破った金星と技能賞
二子岳さんの相撲は、110kg前後の体で大型力士に食い下がる技巧派。
左四つからの下手投げ、そして内無双・外無双。相手の膝を手で払って倒す無双は、いまでも珍しい技です。
この技を得意にしていた力士は当時も少なく、二子岳さんは無双という技を広く知らしめた一人とされています。
無双は、相手の足に自分の足をかけ、同時に手で相手の膝の外側や内側を払って倒す技。相手を投げるのではなく、崩して転がすんですね。
蹴返しは、相手の足首のあたりを内側から蹴り払う足技です。体重で押す相撲ではなく、タイミングと足さばきで勝つ。小兵の二子岳さんらしい選択でした。
ハイライトは1969年11月場所。横綱・大鵬を蹴返しで破り、金星を挙げました。
大鵬といえば、優勝32回の昭和の大横綱です。その大鵬を、足技の蹴返しで転がした。技巧派の面目躍如でしょう。
番付データベースで、この場所の取組を追ってみました。金星は2日目のことです。
| 日 | 相手 | 決まり手 |
|---|---|---|
| 初日 | 関脇・麒麟児 | 外掛けで勝ち |
| 2日目 | 横綱・大鵬 | 蹴返しで勝ち(金星) |
| 3日目 | 大関・琴櫻 | 上手出し投げで勝ち |
| 9日目 | 前頭・戸田 | 外掛けで勝ち |
| 13日目 | 前頭・錦洋 | 内無双で勝ち |
この場所は5勝10敗と負け越しています。ところが、勝った5番の決まり手を見てください。外掛け、蹴返し、上手出し投げ、内無双。寄り切りも押し出しも、ひとつもありません。
初日から3日間で関脇、横綱、大関を連続で倒したあと、失速して負け越し。波はあっても、勝つときは必ず技で勝つ。二子岳さんの相撲がどんなものだったか、この5番が物語っていますよね。
前年の1968年11月場所には、10勝5敗で技能賞も受賞しています。
この技能賞の場所は西前頭7枚目でした。決まり手は押し出し、内掛け、蹴手繰り、腕捻り、掬い投げ、下手投げ、外無双、突き倒しと、10勝でこれだけの種類があります。
同じ技をほとんど使わない。相手ごとに違う崩し方を用意していたということでしょう。技能賞は、まさにこの多彩さに贈られた賞でした。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 通算成績 | 561勝564敗1分30休(94場所) |
| 幕内成績 | 376勝460敗1分11休(57場所) |
| 三賞 | 技能賞1回(1968年11月場所) |
| 金星 | 1個(1969年11月場所、大鵬から) |
| 最高位 | 西小結 |
| 幕内在位 | 57場所 |
通算勝率は.499で、ちょうど五分。幕内57場所というのは、10年近く幕内に居続けた計算になりますね。
派手な優勝争いこそなかったものの、上位に定着し続けた。それが技巧派の強さだったんですね。
引退の場所は1976年9月、東前頭12枚目でした。初日から7連敗したあと休場し、そのまま土俵を去っています。32歳でした。
幕内のまま引退した形です。十両に落ちてから辞める力士が多いなか、幕内で終えたところにも、本人のこだわりがあったのかもしれませんね。
荒磯部屋の15年と停年
1976年9月場所を最後に引退し、年寄・白玉を襲名。1983年12月には荒磯に名跡を変えています。
そこから1993年までの17年間、二子岳さんは杉並区阿佐谷の二子山部屋で部屋付きの親方を務めました。
この時期の二子山部屋は、まさに黄金期です。1978年5月に二代目若乃花が、1983年7月には隆の里が横綱に昇進。若嶋津も大関に上がりました。
| 力士 | 最高位 | 備考 |
|---|---|---|
| 貴ノ花 | 大関 | 初代若乃花の実弟。二子岳さんの弟弟子 |
| 二代目若乃花 | 横綱(第56代) | 1978年5月に昇進 |
| 隆の里 | 横綱(第59代) | 1983年7月に昇進。のちの鳴戸親方、稀勢の里の師匠 |
| 若嶋津 | 大関 | のちの二所ノ関親方 |
10代二子山は生涯で19人以上の関取を育てたとされます。その多くが、二子岳さんが部屋付きだった時代に育った力士です。
横綱2人、大関2人を稽古場で間近に見て、指導に加わった17年。関取第一号から始まった二子岳さんの二子山部屋での時間は、実に32年に及びました。
そして1993年3月、師匠の若乃花が停年を迎えます。ここで二子岳さんに転機が訪れました。
同じ年の5月27日、二子岳さんは二子山部屋から独立し、東京都国立市に荒磯部屋を創設しました。49歳のときでした。
ここでひとつ、興味深い事実があります。現在の相撲協会の基準では、二子岳さんの実績で部屋を新設することは難しいんです。
| 現在の新設条件(いずれか) | 二子岳さんの実績 |
|---|---|
| 横綱または大関の経験 | 最高位は小結 |
| 三役(関脇・小結)通算25場所以上 | 小結を数場所 |
| 幕内通算60場所以上 | 幕内57場所 |
幕内57場所は、あと3場所で60に届く数字でした。いまの基準が当時からあったなら、荒磯部屋は生まれていなかったかもしれません。
1993年当時は、こうした数値基準が明文化される前の時代です。だからこそ、小結止まりの力士でも自分の部屋を持てました。
いま振り返れば、二子岳さんは「部屋を持てた最後の世代の小結」の一人だったのかもしれませんね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 創設 | 1993年5月27日 |
| 所在地 | 東京都国立市(多摩地区で唯一の相撲部屋) |
| 師匠 | 12代荒磯(二子岳) |
| 関取 | 在籍中は輩出なし |
| 閉鎖 | 2008年9月場所限り |
| 閉鎖時の力士 | 3人(2人が引退、荒鷲は花籠部屋へ) |
| 親方の転属先 | 松ヶ根部屋(現・放駒部屋) |
2008年11月、65歳の停年を迎え、その2か月前に部屋を閉じました。停年後は協会を離れ、静かな生活を送っていたようです。
相撲協会の年寄には65歳の停年があります。誕生日を迎えた月に協会を退職する決まりで、部屋を持つ親方は後継者に譲るか、部屋を閉じるかを選びます。
二子岳さんの場合、部屋に関取はおらず、後を継ぐ親方もいませんでした。閉鎖という選択は、自然な流れだったのでしょう。
残った力士のうち荒鷲は花籠部屋へ。そして親方自身は、停年までの2か月を松ヶ根部屋の部屋付きとして過ごしました。
ちなみに「荒磯」という名跡は、その後に元横綱・稀勢の里が2019年から2021年まで名乗っています。二子岳さんが25年守った名前を、横綱が引き継いだわけです。
稀勢の里はいま二所ノ関親方として、大の里ら横綱を育てています。名跡の歴史をたどると、二子岳さんの名前もそこにつながっているんですよね。
まとめ
- 山中武さん(元小結・二子岳)の妻について、名前や経歴は公表されていない
- 2026年9月10日に肝細胞がんのため82歳で自宅で死去。葬儀は家族葬
- 1993年から2008年まで国立市で荒磯部屋を運営。妻はおかみさんとして部屋を支えていたと見られる
- 「二子山親方(雅山)の妻」の情報は別人のもので、二子岳さんとは無関係
- 初代若乃花に見出され、二子山部屋の関取第一号に。1969年に大鵬から金星
- 弟子の荒鷲は部屋閉鎖後に幕内へ昇進。名跡「荒磯」は後に稀勢の里が継いだ
妻の名前は分からなくても、82年の生涯の輪郭ははっきりしています。金木町から出て、土俵の鬼に育てられ、大横綱を転がした人でした。
よくある質問
Q1. 山中武さんの妻は誰ですか?
A. 公表されていません。日本相撲協会の発表にも報道にも、妻の名前や経歴は出ていません。一般の方であるため、この記事でも推測はしていません。
Q2. 山中武さんとは誰ですか?
A. 元小結・二子岳の本名です。1960〜70年代に活躍した青森県出身の力士で、引退後は荒磯親方として荒磯部屋を運営しました。
Q3. いつ亡くなったのですか?
A. 2026年9月10日、肝細胞がんのため自宅で亡くなりました。82歳でした。日本相撲協会が9月13日に発表しています。
Q4. 葬儀はどうなりますか?
A. 家族葬で執り行われます。日程や喪主は公表されていません。
Q5. 子供はいますか?
A. 公表されていません。家族に関する情報は、訃報を含めて一切出ていません。
Q6. 二子山親方の妻とは関係がありますか?
A. ありません。二子山親方(元大関・雅山)は別人で、二子岳さんとは無関係です。名前が似ているため混同されやすいので注意してください。
Q7. 二子岳の最高位は何ですか?
A. 西小結です。1967年九州場所に昇進しました。技能賞1回、金星1個の記録があります。
Q8. 大鵬から金星を挙げたのは本当ですか?
A. 本当です。1969年11月場所で、横綱・大鵬を蹴返しで破りました。
Q9. 荒磯部屋はどこにありましたか?
A. 東京都国立市です。1993年5月に創設し、2008年9月場所限りで閉鎖されました。多摩地区で唯一の相撲部屋でした。
Q10. 弟子に有名な力士はいますか?
A. モンゴル出身の荒鷲です。部屋の閉鎖後に花籠部屋へ移り、2011年に十両、その後幕内に昇進。最高位は東前頭2枚目です。
Q11. 師匠は誰でしたか?
A. 初代若乃花(二子山親方)です。同じ青森県出身で、中学卒業時に勧誘されて入門しました。二子岳さんは二子山部屋の関取第一号でした。

コメント