ジュディ・オングさんに子供はいません。1992年に美術商の鈴木洋樹さんと結婚しましたが、1998年に離婚しています。
結婚したのは42歳のとき。本人は「自分の子供を抱っこできなかったことが心残り」という趣旨の言葉も残しています。
- 子供がいない理由と、本人が語ってきたこと
- 元夫はどんな人物で、なぜ6年で別れたのか
- 祖父は辛亥革命の人物という、一族の背景
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | ジュディ・オング(本名・翁ジュディ) |
| 台湾名 | 翁倩玉(おう せんぎょく) |
| 生年月日 | 1950年1月24日 |
| 年齢 | 76歳 |
| 出生地 | 台湾・台北市 |
| 国籍 | 日本(1972年に帰化) |
| 学歴 | 東京中華学校、アメリカンスクール・イン・ジャパンを経て上智大学国際学部卒業 |
| 職業 | 歌手、女優、木版画家 |
| 結婚 | 1992年5月(1998年に離婚) |
| 子供 | いない |
ジュディ・オングの子供と家族
子供はいません。1992年に結婚した相手は美術商の鈴木洋樹さんで、6年後に離婚しました。
一方で一族には辛亥革命に関わった祖父や、台中駅を手がけた建築士の兄がいます。
子供はいない
結論から言うと、ジュディ・オングさんに子供はいません。実子も養子も確認できませんでした。
1992年に結婚し1998年に離婚していますが、この6年間で子供は生まれませんでした。
その後の再婚もなく、実子・養子ともに情報はありません。「娘がいる」といった話も確認できませんでした。
結婚生活そのものが6年と短く、そのあいだも2人とも仕事で世界を飛び回っていました。
| 項目 | 状況 |
|---|---|
| 実子 | いない |
| 養子 | 情報なし |
| 結婚 | 1992年5月から1998年まで |
| 再婚 | していない |
| 現在 | 独身 |
ネット上には子供に関するさまざまな噂がありますが、いずれも裏づけのないものです。
芸能人に子供がいるかどうかは、本人が語らなければ確認しようがありません。
ジュディ・オングさんの場合、離婚から四半世紀以上が経っています。その間、子供の存在を示す報道は一度もありませんでした。
いないと考えて差し支えない状況です。
42歳での結婚だった
子供がいない背景を考えるうえで大きいのが、結婚した年齢。
ジュディ・オングさんが結婚したのは1992年5月、42歳のときでした。
当時としてはかなり遅い結婚。しかも歌手、女優、木版画家という3つの仕事を並行させ、国内外を飛び回っていた時期です。
相手の鈴木洋樹さんも美術商として海外出張の多い人でした。夫婦そろって多忙という状況だったわけですね。
6年の結婚生活で子供に恵まれなかったのは、年齢と生活のあり方が重なった結果と考えるのが自然でしょう。
1992年当時、42歳での初婚は相当に遅いほうでした。日本人女性の平均初婚年齢は26歳前後だった時代です。
それだけ仕事に打ち込んできたということでもあります。10代でデビューし、30年走り続けたうえでの結婚。
家庭より仕事を選び続けた結果として訪れた42歳だったのでしょうね。
本人が語ってきた健康の問題
もうひとつ、本人がインタビューで語ってきた出来事も。
36歳のころ、卵巣嚢腫で緊急手術を受けたという経験です。
仕事に追われて睡眠不足が続き、体調を崩していた時期でした。診断を受けたあともしばらくは薬で対応していたそうです。
ところが、ある日ついに倒れてしまいます。新曲の発表を目前に控えたタイミングで、緊急手術となりました。
この件は本人がさまざまな場で語っており、隠してきた話ではありません。
ただしこの手術と子供がいないことを直接結びつける説明を、本人がしたわけではありません。因果関係として断定するのは行き過ぎでしょう。
公表されているのは、そういう時期があったという事実までです。
卵巣嚢腫そのものは、若い女性にも起こりうる病気。多くは良性で、手術で摘出すれば治ります。
ただ卵巣の一部を切除した場合、妊娠のしやすさに影響が出ることもあるとされます。
だからといって、それが個人の事情にどう作用したかは他人には分かりません。推測で埋めるべきではない領域です。
この記事では、本人が語った範囲だけを書いておきます。
元夫は美術商の鈴木洋樹
結婚相手だった鈴木洋樹さんについても整理しておきますね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 鈴木洋樹(すずき ひろき) |
| 職業 | 美術商・画商 |
| 経歴 | 元商社マン |
| 実績 | ヒロ・ヤマガタの日本代理権を持っていた |
| 結婚 | 1992年5月 |
| 離婚 | 1998年 |
鈴木さんは元商社マンから画商へ転じた人。世界的な人気を持つ画家ヒロ・ヤマガタの日本での代理権を握り、名を知られた存在でした。
2人の出会いは、ジュディ・オングさんの版画活動を通じてだったと伝えられています。アートが縁を結んだ形ですね。
結婚式は日本と台湾の両方で挙げられました。政財界や芸能界の大物を含め、招待客は合わせて約2000人。
当時としても破格の規模でした。2人の立場の大きさがうかがえます。
ヒロ・ヤマガタさんは1980年代から90年代にかけて絶大な人気を集めた画家。明るい色彩の風景画で知られます。
その日本代理権を握るということは、市場の中心にいたということ。年商は数十億円規模だったとも伝えられています。
版画を制作するジュディ・オングさんと、絵を扱う鈴木さん。仕事の領域が重なっていたからこそ、出会いも生まれたのでしょう。
6年で離婚した理由
華やかな結婚から6年後の1998年、2人は離婚しました。
理由として語られてきたのがすれ違いです。
ジュディ・オングさんは歌手・女優・木版画家として国内外で多忙を極めていました。一方の鈴木さんも、美術商として頻繁に海外へ。
夫婦として過ごす時間そのものが取れなかったといわれています。
どちらかに非があるという話ではなく、2人とも仕事の最前線にいたがゆえの結末だったのでしょう。
離婚後、ジュディ・オングさんは再婚していません。
離婚したのは1998年、48歳のとき。そこから四半世紀以上を独身で過ごしてきたことになります。
この時期以降、活動の軸足が木版画へ大きく傾いていきました。1993年に初個展を開き、2005年には日展で特選。
結婚生活が終わったあとに、表現者として次の山を登った形です。
寺尾聰との破局
結婚に関しては、それ以前にも語られてきた話が。
若い頃、俳優の寺尾聰さんと交際しており、結婚間近とまで報じられた時期がありました。
ところが2人は結ばれていません。伝えられている理由が、価値観の違いでした。
寺尾さんは結婚したら妻に家庭へ入ってほしいという考え。対するジュディ・オングさんは、結婚しても仕事を続けたいという立場でした。
働き続けるかどうかで折り合わなかったということになります。1970年代から80年代の話です。
いまなら議論の余地もある論点ですが、当時としては珍しくない対立だったのでしょう。
結果として、ジュディ・オングさんは仕事を選び続けました。その延長線上に、いまの木版画家としての評価もあります。
寺尾聰さんはその後、1981年に「ルビーの指環」を大ヒットさせ、俳優としても長く活躍しました。
2人が別れなければ、日本の芸能史は少し違っていたかもしれません。選ばなかった道が、はっきり残っている珍しい例ですね。
この破局と、のちの離婚。どちらにも「仕事を続ける」という一貫した姿勢が関わっています。
一族の背景と経歴
祖父は辛亥革命に関わった医師、父は放送局の幹部、兄は建築士という一族です。
2歳で来日し、11歳で映画デビュー。歌手としても木版画家としても実績を残してきました。
祖父は辛亥革命の人物
ジュディ・オングさんの家系は、台湾でも知られた一族。
| 続柄 | 人物 | 内容 |
|---|---|---|
| 父方の祖父 | 翁俊明 | 医師。辛亥革命に関わった歴史的人物 |
| 母方の祖父 | 劉北鴻 | 台南の大地主 |
| 父 | 翁炳栄 | 放送局の幹部。中国広播公司の駐日代表を務めた |
| 兄 | 翁祖模(マーク・オング) | 建築士。高鉄台中駅の建設に携わった |
父方の祖父・翁俊明さんは医師であり、辛亥革命に関わった人物として名を残しています。
母方の祖父・劉北鴻さんは台南の大地主。どちらの家系も、台湾の近代史に位置を占めています。
父の翁炳栄さんは1923年に浙江省で生まれ、放送の世界へ進みました。中国広播公司でラジオ局長を務めた人です。
兄の翁祖模さんは建築士。台湾高速鉄道の台中駅の建設に携わりました。
2020年ごろには台北の百貨店で、兄妹そろっての特別展覧会も開かれています。妹の版画と兄の建築を並べる企画でした。
展覧会のタイトルは「O2 藝境畫篇 翁倩玉版畫X翁祖模建築」。O2は2人のオング(翁)を指しているのでしょう。
版画と建築という異なる分野を並べる企画が成立したのは、兄妹それぞれが第一線にいたからこそ。
兄が手がけた高鉄台中駅は、台湾高速鉄道の主要駅のひとつ。台湾の交通の要を設計した建築士です。
芸能一家ではなく、医師・放送人・建築士という専門職の家系。そこから歌手が出たのは意外な流れですね。
辛亥革命は1911年に起きた中国の革命で、清朝が倒れるきっかけになった出来事。台湾出身者にも関わった人がいました。
翁俊明さんは医師でありながら、その動きに身を投じた人物とされています。歴史の教科書に載る時代の当事者だったわけです。
母方の劉北鴻さんは台南の大地主。土地を持つ家と、医師の家が結びついた形になります。
こうした背景があると、芸能界に進むことへの家族の反応も気になるところ。ただ、そこについて本人が詳しく語った記録は見当たりませんでした。
では、台湾生まれの一家がなぜ日本にいたのか。理由は父の仕事にありました。
1952年、2歳のときに一家で来日します。父の翁炳栄さんが、駐日米軍GHQの心理作戦部に関わる仕事に就いたためでした。
その後、父は中国広播公司の駐日代表として日本に在留。一家で日本に暮らす形になります。
教育も国際色が濃いものでした。東京中華学校を出たあと、アメリカンスクール・イン・ジャパンへ。
さらに上智大学の国際学部を卒業しています。中国語・日本語・英語を使い分ける環境で育ったわけですね。
中華学校で中国語、アメリカンスクールで英語、そして日常は日本語。3つの言語のなかで育ったことになります。
上智大学の国際学部は英語で授業が行われる学科として知られる場所。芸能活動と並行して通ったことになります。
11歳でデビューしていますから、子役の仕事をこなしながら学業も続けていたわけです。相当な負担だったはずですね。
1972年には日本に帰化。台湾と日本の両方に軸足を置く生き方が、ここで決まりました。
帰化したのは22歳のとき。ちょうど台湾の金馬奨で最優秀主演女優賞を受けた年でもあります。
台湾で女優として最高の賞を得た年に、日本国籍を選んだことになります。どちらかを捨てる選択ではなかったのでしょう。
実際その後も台湾での活動を続け、台湾から複数の顕彰を受けています。
| 年 | 顕彰 |
|---|---|
| 1980年 | 台湾の国民栄誉賞にあたる海光奬彰 |
| 1995年 | 台湾 勲一等華光奬章 |
| 2022年 | 文化庁長官表彰 |
| 2022年 | 外務大臣表彰(台日の相互理解への貢献) |
台湾と日本の双方から顕彰を受けている人は、そう多くありません。両国をつなぐ役割を長く担ってきたことの表れでしょう。
外務大臣表彰の理由も「台湾と日本の相互理解と友好関係への貢献」でした。歌や絵の実績とは別の評価軸になります。
11歳の映画デビューから魅せられてへ
芸能界に入ったのは、驚くほど早い時期。
1961年、11歳のときに日米合作映画『大津波』で映画デビュー。子役としてのスタートです。
1966年には「星と恋したい」で歌手デビューを果たしました。16歳のときですね。
そして最大の転機が1979年に訪れます。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1961年 | 映画『大津波』でデビュー(11歳) |
| 1966年 | 「星と恋したい」で歌手デビュー |
| 1972年 | 台湾の金馬奨で最優秀主演女優賞 |
| 1972年 | 日本に帰化 |
| 1975年 | 木版画の制作を開始 |
| 1979年 | 「魅せられて」が200万枚の大ヒット、日本レコード大賞 |
| 1992年 | 鈴木洋樹さんと結婚(42歳) |
| 1998年 | 離婚 |
| 2005年 | 版画「鳳凰迎祥」が宇治平等院に奉納 |
1979年の「エーゲ海のテーマ〜魅せられて」は200万枚を売り上げる大ヒット。同年の日本レコード大賞を受賞しました。
大きく広がる袖の衣装で歌う姿は、いまも語り継がれています。
あの衣装は、腕を広げると蝶の羽のように見える独特のデザイン。第30回NHK紅白歌合戦でも披露されました。
実はこの衣装、本人がデザインしたものです。歌手が自分で衣装を考えるのは当時としても珍しいことでした。
しかも構想が独特で、名づけて「スクリーンドレス」。扇状に広げた袖と胴の全体に、エーゲ海の風景の映像を映すという発想でした。
実際に映像を投影する演出まで至ったかはともかく、着る人が自らスクリーンになるという発想がすごいですよね。
紅白で着用した衣装は幅が3メートルあったと本人が語っています。孔雀が羽を広げたような姿と評されました。
この年は余談も生まれました。ヒットの影響でシーツがよく売れたというのです。
真ん中に穴を開けて頭からかぶり、余興で「魅せられて」を歌う人が続出したためだとか。衣装が真似されるほど浸透したことになります。
曲名の「魅せられて」より、衣装のインパクトで記憶されている面もありますよね。
作詞は阿木燿子さん、作曲は筒美京平さん。当時の第一線が組んだ楽曲でした。
この年、日本レコード大賞に加えてFNS歌謡祭の最優秀歌唱賞も受賞しています。
曲の成り立ちも触れておきます。候補は3曲あり、1978年12月19日に「魅せられて」が選ばれました。
曲名は作詞の阿木燿子さんの要望によるもの。副題の「エーゲ海のテーマ」が決まったのは、翌1979年1月9日でした。
もともとは女性下着メーカー、ワコールのCMソングとして作られた曲です。
同じ年に日伊合作映画『エーゲ海に捧ぐ』が公開されており、その世界観とも重なりました。複数の要素がかみ合った結果の200万枚だったわけですね。
第30回NHK紅白歌合戦への初出場も、この年のことです。
女優としても評価は高く、1972年には台湾の金馬奨で最優秀主演女優賞を獲得しました。
| 年 | 受賞 | 作品 |
|---|---|---|
| 1972年 | 第10回 金馬奨 最優秀主演女優賞 | 『真假千金』(邦題・ニセのお嬢さん) |
| 1973年 | 第19回 アジア映画祭 特別演技賞 | 『愛的天地』(愛の大地) |
| 1979年 | 第21回 日本レコード大賞 | 「魅せられて」 |
| 1979年 | FNS歌謡祭 最優秀歌唱賞 | 「魅せられて」 |
金馬奨は台湾の映画賞で、中華圏では最高峰とされる賞。22歳でその主演女優賞を受けていることになります。
翌年にはアジア映画祭でも受賞。日本で歌手として売れる前に、台湾では映画女優として頂点に立っていたわけですね。
その後も映画、青春ドラマ、時代劇、ミュージカルと出演の幅を広げてきました。
木版画家としてのもう一つの顔
ジュディ・オングさんを語るうえで欠かせないのが、木版画家としての活動。
始めたのは1975年。版画家の菊地隆知さん、井上勝江さんに師事しました。
木版画と出合ったのは25歳のとき。歌手として売れる前の時期にあたります。
注目したいのが師匠の系譜です。井上勝江さんは棟方志功の門下にあたる版画家。
棟方志功といえば、日本の木版画を世界に知らしめた巨匠。その流れを汲む場所で学んだことになります。
雅号は「ジュディ・オング倩玉」。台湾名の倩玉を、作家名として使い続けてきました。
「ジュディ・オング倩玉」の名で制作し、日展に14回入選、2005年には特選を受けています。
| 年 | 実績 |
|---|---|
| 1975年 | 木版画の制作を開始 |
| 1993年 | 初の個展を開催 |
| 2005年 | 日展で特選。作品「鳳凰迎祥」が宇治平等院に奉納 |
| 2023年 | 台南市美術館での展覧会が来場者記録を更新 |
| 2024年 | 台北でも展覧会を開催 |
題材にしてきたのは「花」と日本の「民家」。全国の古い民家や社寺を訪ね歩いて描いてきました。
台湾生まれの人が、日本の古い家屋を描き続けている。ここに面白さがあります。
外から来た目だからこそ、日本人が見過ごす美しさに気づけるのかもしれません。2つの国を持つ人ならではの視点ですね。
展覧会は各地の美術館を巡回しており、長崎県美術館などでも開催されてきました。
宇治平等院への奉納は、芸能人の趣味という次元を超えた評価の証でしょう。
「鳳凰迎祥」は2003年の制作で、第35回日展の入選作品。平等院そのものを題材にした作品です。
その作品が、描かれた当の平等院に奉納された。題材となった場所が受け入れたという、なかなかない形ですね。
作風は、日本家屋を墨黒を基調に奥深く描き、花は繊細で艶やかに表現するというもの。大胆な構図と細やかな彫りが特徴とされます。
題材を探すため、多忙な仕事の合間を縫って全国の旧家や神社仏閣を自分で訪ね歩いてきました。取材から制作まで自分でやる姿勢を貫いています。
展覧会は日本だけでなく、台湾各地、ドイツ、フランスでも開催されてきました。
2023年に台南市美術館で開いた展覧会は、来場者数の記録を更新したと伝えられています。
台南は母方の祖父ゆかりの土地でもあります。ルーツのある場所で記録を作ったことになりますね。
翌2024年には台北でも展覧会を開催。歌手としてではなく、版画家として台湾に迎えられている形です。
木版画は、彫って刷るという地道な作業の積み重ね。華やかな歌手業とは対極にある表現でしょう。
76歳の現在
2026年現在も活動を続けています。
2021年には公式YouTubeチャンネルを開設。美容や薬膳をテーマにした動画を配信しています。
70代でYouTubeを始めるというのも、この人らしい動き方。テーマに薬膳を選んだところに、台湾のルーツも感じられます。
70歳を迎えた際のインタビューでは「これからは毎日をお正月にしよう」と決めたと語りました。
年齢を重ねることを前向きに扱う姿勢が、そのまま発信の内容にもつながっているのでしょう。
介助犬サポート大使も務めており、2026年8月には国際アシスタンスドッグウィークに関する発信も行いました。
介助犬サポート大使に就任したのは2014年。10年以上続けている活動です。
| 活動内容 | 詳細 |
|---|---|
| 介助犬フェスタ | チャリティー企画への商品提供 |
| シンシアの丘 | 介助犬総合訓練センターへの来訪 |
| アイススケートショー | 介助犬使用者を招待 |
| チャリティーマラソン | 名古屋栄ライオンズクラブ主催の催しに参加 |
| 学会トークショー | 日本身体障害者補助犬学会に登壇 |
介助犬は、体が不自由な人の日常動作を助ける犬。盲導犬に比べると認知度が低く、受け入れを断られる例もあります。
2021年にはJAFとの対談動画にも出演し、思いやりのある交通社会をテーマに語りました。
名前を貸すだけでなく、現場に足を運ぶ形で続けてきた活動です。
介助犬を使う人がスケートショーに招かれたり、チャリティーマラソンに本人が参加したり。関わり方が具体的なのが特徴です。
知名度のある人が10年以上ひとつのテーマを続けるのは、簡単ではありません。
2022年には文化庁長官表彰を受けたほか、台日の相互理解への貢献で外務大臣表彰も受けています。
台湾では1980年に国民栄誉賞にあたる海光奬彰、1995年に勲一等華光奬章を受けました。両国から顕彰されてきた稀な人です。
子供はいませんが、歌と絵と社会活動という3つの軸を持ち続けている。そういう76歳ですね。
歌手として200万枚のヒットを持ち、女優として金馬奨を受け、版画家として日展の特選に届いた。
3つの分野それぞれで頂点に近いところまで行った人は、なかなかいません。
結婚は6年で終わり、子供にも恵まれませんでした。ただ本人の歩みを追うと、それを埋めるように仕事を重ねてきたようにも見えます。
「自分の子供を抱っこできなかったことが心残り」という言葉は、その裏側にあるものなのでしょうね。
まとめ
- ジュディ・オングさんに子供はいない
- 1992年5月に美術商の鈴木洋樹さんと42歳で結婚し、1998年に離婚した
- 離婚理由はすれ違いで、双方が多忙だったことが背景
- 36歳のころ卵巣嚢腫で緊急手術を受けた経験を本人が語っている
- 祖父は辛亥革命に関わった医師、兄は台中駅を手がけた建築士
よくある質問
Q1. ジュディ・オングさんに子供はいますか?
いません。1992年から1998年までの結婚生活で子供は生まれず、その後の再婚もありません。
Q2. 元夫はどんな人ですか?
美術商の鈴木洋樹さんです。元商社マンで、画家ヒロ・ヤマガタの日本代理権を持っていた画商でした。
Q3. 離婚の理由は何ですか?
すれ違いと伝えられています。双方が仕事で国内外を飛び回っており、夫婦の時間が取れなかったとされます。
Q4. 寺尾聰さんとの関係は?
若い頃に交際し、結婚間近と報じられました。結婚後の働き方をめぐる考えの違いで破局したと伝えられています。
Q5. 国籍はどこですか?
日本です。台湾・台北市の生まれですが、1972年に日本に帰化しています。
Q6. 現在は何をしているのですか?
歌手・木版画家として活動を続けています。YouTubeチャンネルも運営し、介助犬サポート大使も務めています。
Q7. 木版画はどれくらいの実力なのですか?
日展に10回以上入選し、2005年には特選を受賞しています。平等院を描いた「鳳凰迎祥」は、その平等院に奉納されました。
Q8. なぜ台湾出身なのに日本で活動しているのですか?
2歳のとき、父の仕事の都合で一家そろって来日したためです。1972年には日本に帰化しています。
この記事は2026年9月時点で公表されている情報にもとづいています。健康に関する記述は本人がインタビューで語った範囲にとどめ、子供がいないことへの因果関係は断定していません。

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